自分が弱いという、思い上がり
人間が人間を消費して
人間が人間に消費されている。
ずっと自分は消費される側だと思っていた。
誰かによって何かになり、剥奪されたりしてそれら全てを受け入れるだけのだと思っていた。
だけど自分も消費している側面があることになんとなく気がついた。
私の場合の多くはエンタメで
対象である人を消費して、消費され、また消費している。
だけどたまに、何事においても人を「消費する」側にしか立たない人がいる。
人を掌に乗せて、そこから出ていかないように育てることができる人がいる(無意識でも、意図的でも)
凶暴
怖いと思う。
だけど少し、うらやましい
私もそちら側だったら、どんなに強いだろう。
逃れられないダメージを受けずに生きられるんだろう。
強い/弱いの話。
何かマイナス・悪・罪を否定しきれない出来事が起きたときに
自分は無条件に傷つくものだと思っていた。
傷が大きくても、気がつかないくらい小さくても、絶対に悲しくなるものだと思い込んでいた。
自分が「何も感じないほど強い可能性」に目をむけたことがなかった。
「自分の心が弱い」という思い上がり。
だと思う。
病む とか メンヘラが流行りすぎて、若い自分はそれが些細でも悲しみに分類されるものに対して「負ける」ことが普通だと思っていた。
元気に強く健やかな状態で生きることなんてありえない
何かに対してマイナスな思慮を味わって自分の存在に絶望しないと生きるじゃない
ふと、同じ種類の絶望を
自分で嗅ぎつけて捉えて味わっている
気が済むまで、絶望したがっている。
だけど同じ種類の「悲しい」とか「絶望」だから
自分の感想が変わらない ことに 飽きた。
飽きるよな
同じ庭で同じ花を積み続ける毎日には飽きてしまうよな
だから同じ花を摘んで、枯れても捨てられずにいることまでの楽しみを
捨てることにする。
味わったことのない花の味に出会う可能性が、この先あるだろうから
それは誰にでも平等に与らえている未来だから(その花に気づくか、詰むかは別として)
そのときにアップデートされますように、自分の「強さ」を認めて
長年愛してきた「弱さ」をやめることにする。
自分が強いと思うことが思い上がりではなく、自分が弱いと思うことが思い上がりになったのだ。
もっともっと、逃げられない、誤魔化せなくなる弱さが待っているはずだから
居座り続けた庭から出ていく
次の誰かがきたときに、満開であるように 楽しめるように
誰かが出て行った庭に移住する
いつか消費する人の庭に行きたい。
嬉しいや楽しいに気がつけない分、転がり蔓延っている悲しみや不幸に敏感である日々をモノしていく。