ギリギリセーフな安定と理解

健康な側面 言葉を残したい若い若い

屋台の食べ物は冷静になると買うタイミングがない。色素の薄い目が陽の光に透けている。最近から半年前くらいの話まで

 

 

 

今年の紅白で薬師丸ひろ子の「Woman Wの悲劇より」の歌を見てハマった。

曲も歌詞も本人の姿もセットも全部が好きポイントにハマってItunesに入れた。

ママがこの曲がきっと好きで、聞くたびに私も気に入っていて。

今までも何度かどういう曲かを説明してもらっていたと思う。Wの悲劇という作品の歌らしい。Wの悲劇の説明も何度かしてもらっているが、ママが話すWの悲劇の説明が好きで何度も知らないフリをして聞いてしまう。

それでいくとママの話し方が好きだ。実家に帰るたびに真似をしたくなる。

 

人と会っていて、解散してひとりになると夏に1人で鳥取砂丘へ行ったことを思い出す。

究極にひとりだったからだ。多分。

1人でいるときはほぼ音楽を聴いているけれど、その時は何も聴かずに砂と海だった。

その時というのは、砂丘の丘の上で海が見えた。9月の月曜日。

静かに疲れていた。いや勝手に遊んでいただけだし好き勝手やってたんだけど。

9月後半から10月後半ごろにかけて記憶がほとんどない。覚えているのは、友達のお母さんと見上げた夜空、泣きながら。そこから観覧車、夕暮れの遊園地と、花火。

その期間はオレンジ色だった。何ていうか見えてるものが全体的に。あと常に涙が眼球に幕を貼っていた。瞬きをしても、こぼれないくらいの。

 

春はもう、ずっと前のことみたいだ。

何なら去年の冬の方が、最近のことみたいに感じる。気温のインパクトがないと、記憶に残らないんだろうか。そんなわけない。

ていうか春はもうすぐで、3ヶ月も経てば春になる。

 

「Woman Wの悲劇より」の話に戻るけど、

気に入ったので聴きながら帰り道に歩いていた。

「雪のような星が降るわ」という歌詞が気になった。

「星のような雪」ではなく「雪のような星」降っているのは雪ではなく星なのだ。星が降ったら、どんなだろう。どんな景色を見たら「星が降っている」と感じられるんだろう。

星、星。と思って歩いていたら、地面に氷のかけらのようなプラスチックの砕けたカケラみたいな、ガラスよりは鋭くないキラキラした透明な何かが落ちていて、そのいくつかを蹴った。

ただ、星ではない何か。

「降りつもるわ星の破片」という歌詞が流れた。

この歌詞の「星」はこれではない、何か。多分、これではない。

平井堅もカバーしていて。それもまたすごく好きだった。

この曲を夏の鳥取砂丘で聴いていたらズダボロにダメージ受けていたと思うけど、ハマったのが今でよかった。

何が起きて未来がどうなるかわからないもんだね。と春夏の自分に言いたい。それを聞けば、1時間歩かずに駅からバスで砂丘まで行っただろうに。

 

引っ越した。先月。

これは大正解だった。生活範囲は狭くなったけどかなり楽になって体と気持ちに余裕ができた。家族にたくさん手伝ってもらったけれど、自分は自分の生活のために引っ越すことができるんだなあ。という発見と安堵、喜び。

でもまだスーパーに行けていない。この冬から寒さに弱くなり、スーパーまでまだ歩いことがないのでどのくらい寒さと戦いながら歩くことになるのかわからないので歩き出せていない。だけどそろそろ限界を感じているので歩いて行こうと思う。いつになるかはまだ不明。

 

↑から30分ほど経ったけれど、そういえば先々週くらいに見たミゾレは「雪のような星」に近かった。光っていた、太陽の光で。

 

全然関係ないけど熱田神宮に初めて行ったけれど人が多いこと多いこと。

伊勢神宮(地元)よりも多い、多分。

あとお祭りレベルで出店がある。みんなトルネードポテトやチョコバナナを片手に初詣へ吸い込まれる、若干のテンションの歪み。それがまた楽しそうに見えた。

「チョコバナナ欲しい」を提案しようか迷ったけれど、最後まで美味しく食べられるか微妙だったのでやめた。その後に岩盤浴に行く予定だったので岩盤浴前にチョコバナナも違った。

岩盤浴も良かった。岩盤浴についても書きたいけどそれはまたのブログで。(体力)

 

お米を炊いた。3ヶ月ぶりくらいに。

あと家の保湿クリームの一員にメラノCCを加入してみた。

 

今日はここまで